ストレプトマイシンは土の中の放線菌から

今は、抗生物質を使うと、耐性菌の問題があるということが広く知られている時代です。あまりよいイメージは持たれていません。

しかし、昔、結核の特効薬としてストレプトマイシンができて、結核は不治の病から治る病気になりました。ところで、そのストレプトマイシンが土壌菌から発見されたことはご存知ですか?

ストレプトマイシンの発見者はワクスマンではなかった?

ずいぶん前、20年以上前に、国会図書館で農業に関係がある土壌菌の本を探していたときに、ワクスマンの「微生物とともに」を見つけて読みふけったことがあります。

「微生物とともに」は、日本で1955年に出版されていました。私が読んだのは初版本でした。1952年にワクスマンはノーベル生理学・医学賞を受賞したので、きっとそれを記念して出版された本の日本語訳なのだと思います。喜びに満ちあふれていて読んでいて楽しい本でした。

ところが、つい最近、世紀の新薬発見 その光と影の物語―ストレプトマイシンの発見と救われた少女の命という本のことを知り、2009年出版の本だったので図書館で探して読みました。

なんと、ストレプトマイシンを発見したのは、当時ラトガース大学のワクスマンの研究室に所属する大学院生だったアルバート・シャッツ氏だというのです。

本の前半では、ワクスマンとノーベル賞の栄誉を本来であれば受けるべき人物、アルバート・シャッツ博士が紹介され、後半は、ナチ強制収容所での死をまぬがれ、しかし肺結核に冒されてストレプトマイシンによって2度命を救われた、著者インゲ・アウワーバッハーさんの半生が書かれています。

インゲ・アウワーバッハーさんは、自分がストレプトマイシンのおかげで命を救われた感謝の手紙を1997年にアルバート・シャッツ氏に送ったことがきっかけで、ストレプトマイシンの真実を知り、「Finding Dr. Schatz:The Discovery Of Streptomycin And A Life It Saved」を出版することになりました。

そして、翻訳者の橋本浩明氏は、むし歯の発生についてシャッツ氏と親交があったものの、シャッツ氏がストレプトマイシンの発見者であったことは知らなかったのです。

同書を読み、これは日本でも出版しなければと翻訳し、2009年に出版されました。

この記事では、先に、「微生物とともに」でストレプトマイシンの概要を紹介し、次に、「世紀の新薬発見 その光と影の物語」に書かれている真実を紹介しようと思います。

培養

微生物とともに

ワクスマンは土壌菌の研究者

ワクスマン(Selman Abraham Waksman)は、結核の特効薬、ストレプトマイシンを発見した学者で、1952年にノーベル生理学、医学賞を受賞した人です。

彼は、1888年、ロシア領ウクライナ地方に生まれ、1910年に大学入学資格を得たのち、アメリカ東部に渡り、1911年、奨学生としてラトガース大学(Rutgers)に入学、土壌細菌学という当時でもマイナーな分野を学び始めました。

最初は、医学コースに行きたいという希望があったようですが、ロシア移民のルートを頼りに住んだのがラトガース大学のそばで、世話になっている農場で手伝いなどをしているうちに、ラトガース大学の農学部で土壌細菌学を教える教授と知り合いました。彼と話すうち、この分野に強く惹かれるようになったのでした。

放線菌との出会い

そしてこの時期、ワクスマンの後の大発見のもととなる、放線菌との出会いがありました。放線菌とは、細胞が菌糸を形成して細長く増殖する特徴をもつもので、結核菌やライ菌、ビフィズス菌も放線菌です。

放線菌は、当時分類されたのも新しく、酵母や乳酸菌のように、食品に関係していなかったためか、あまり当時は関心が持たれなかったようです。

一般的に土壌菌は、土壌の深さによって生存数がかなり変わるそうですが、この放線菌に関しては、あまり深さの影響を受けず、どこでも見つけられるしぶとい強さを持っているそうです。そしてそこが、ワクスマンの印象に強く残ったところでした。

1916年、ラトガース大学で修士号を取得したのち、彼は、生化学の修得の必要性を感じ、カリフォルニア大学へと移り、1918年生化学の博士号を取得した後、また、ニュージャージに戻り、ラトガース大学の土壌生物学の講師になりました。その後、1925年に助教授、1930年には、教授に昇格しています。

腐植土と放線菌

このころから10年間、彼は腐植土に関する研究を行い、1936年に、結果を「腐植土」という著書にまとめました。腐植土とは、朽木や落葉・落枝が地表に堆積し、それをえさとするバクテリアなどの微生物やミミズなどの土壌動物によって分解され土状になったものです。いわゆる黒土のことです。

彼がなぜ腐植に惹きつけられていたかというと、農場を手伝って生活していた時に、さ
まざまな発見があったからでした。作物を同じように育てても、必ずしも同じような収穫
があるとは限らない。彼は、その理由を土壌に求めました。

農業の基本は土作りといわれるように、当時も腐植(黒土)が大切だということは、経
験上わかっていたのですが、腐植とはいったいどんなものなのか、よく分かっていなかっ
たのです。

もちろん、腐植が、動植物の屍体が分解されたものであることは、それ以前の研究で明
らかになっていたのですが、その本質というか、構成要素が何なのかという話です。
「科学」の話ですから、ものは、構成要素に分解されていきます。空気が80%の窒素
と20%の酸素からなる、という話と似たようなものです。

彼は、腐植を土壌菌との関係から、明らかにしていこうと研究していきました。つまり、土壌菌によって分解されるもの、されないものを観察していき、全体から分解されるものを引き算すれば、腐植の本質が現れてくるだろうというのが、彼がとった方法でした。

ワクスマンがその研究で得た結論は、微生物によって容易に分解される物質(セルローズ、単純な炭水化物、その他)は腐植生成においてあまり重要な役割を果たさず、腐植物質の主要な給源が、第一に植物組織のリグニンであり、第二に微生物の細胞質の形で再合成されたタンパク質であるというものでした。

ただ、この結論は、第二次大戦後、否定的に扱われています。実はもっと複雑なものらしいです。引き算で分かるというわけではなくて、分解しながら化合もしているらしいです。

結核菌の研究依頼

1932年、ワクスマンは、結核菌の研究、特に土壌内での生態を研究するよう依嘱を受けました。当時すでに、何らかの理由で、結核菌が土壌中で死ぬことが分かっていたのが、背景にあるようです。

こう書くと、なにやら意味ありげに聞こえますが、例えば伝染病で死んだ人を埋葬することを考えてみて下さい。経験則はあり、理由が分からなかったということみたいです。

彼は、結核菌が他の微生物に殺されるためであることをつきとめ、1939年から、微生物から生成されて、他の微生物を阻害、あるいは殺す物質、抗生物質を探索する研究を始めました。

彼は、馴染みのある放線菌を選び、これが効を奏して1943年、ストレプトマイシンの発見につながりました。放線菌の中の、ストレプトミセスという種類の菌が役にたったのです。

ちなみに抗生物質としてなじみのあるペニシリンは、ストレプトマイシンより前に発見されていましたが、こちらは糸状菌(カビ)の仲間から生成され、異なる性質を持っていたため、結核には効力がなかったそうです。

一方、ストレプトマイシンは、結核ばかりでなく、インフルエンザ、脳膜炎などにも効力を発揮したそうです。「微生物とともに」の中では、当時、ストレプトマイシンが「夢のような薬」として人々に受け入れられる様子が伝わってきます。抗生物質の多用で耐性菌が問題になっている今とは、えらいちがいです。

この後、彼は「時の人」となり、1952年にノーベル賞を受賞後、世界旅行をし、日本にも立ち寄りました。

そして、1958年、大学を引退。1973年、8月16日に逝去されました。

その後、放線菌からは様々な抗生物質が発見されているそうです。

NHKの10分番組がありました。
微生物の世界~クスリをつくる微生物

参考文献「微生物とともに」S.A ワクスマン/飯島衛訳 新評論社 1955

世紀の新薬発見 その光と影の物語―ストレプトマイシンの発見と救われた少女の命

アルバート・シャッツ氏は、1920年2月2日、コネチカット州ノーウイッチで誕生しました。シャッツ家は農場を所有していて、大恐慌(1929年)時代、牛乳を販売しながら農場の収穫物で生活していました。とても厳しい生活だったようです。

ラトガース大学へ入学

1938年にラトガース大学農学部に入学します。将来は農民になるつもりでした。土壌科学を専攻し、1942年クラスで一番の成績で卒業しました。

さらに、博士号の学位を取得するために大学院生となりました。土壌学を続けて研究するつもりでした。ところが、そのクラスにはシャッツ氏に出せる研究費がなく、セルマン・ワクスマン教授に受け入れてもらうことができ、土壌微生物学のクラスで、博士課程の研究をすることになりました。

ペニシリンが発見されたのは1928年です。ワクスマンはこの頃、新しい抗生物質を見つける計画を先頭だって進めることに決めていました。

空軍病院に配属

1942年、シャッツ氏は、空軍医療班の細菌学者としてフロリダの空軍病院に配属されました。当時は徴兵制度があったようです。仕事は、病気の兵士のベッドサイドに行ってのどや血液からサンプルを採り、致死的なバクテリアを分離して同定するというものでした。

ペニシリンは使われていましたが、有効なのはグラム陽性菌に対してだけでした。グラム陰性菌には有効ではありませんでした。

もっとも一般的なグラム陰性菌の感染症は、髄膜炎、腸チフスと淋病でした。

グラム陰性菌を原因とする結核やその他の感染症を抑える方法がなかったので、彼は、そこで非番のあまった時間をグラム陰性菌に対して有効な抗生物質を探すことにしました。

感染血液を植えた培養皿で、フロリダの土壌、沼、沿岸の海水から分離したカビと放線菌をテストしていました。この時分離された微生物は、ワクスマンに送っていました。

ラトガース大学へ復帰

1943年背中のケガで退役し、博士号を取得するため、再びラトガース大学に戻りました。

そして、ワクスマンの同意を得て、グラム陰性菌に対する抗生物質の探索を続けることになりました。

その頃、ワクスマンに人間の結核を治療する抗生物質を探すよう依頼がありました。しかし、ワクスマンは自分の研究室に結核を引き起こすマイコバクテリウム・ツベルクローシス(結核菌)を持ち込むのを恐れて渋っていました。

シャッツ氏はその研究をやりたいと志願し、受け入れられました。

ワクスマンは結核を治療する効果的な抗生物質を見つける見込みはほとんどないと思っていました。結核菌は、外側がワックス状の物質で覆われて保護されているからです。

彼は、結核にかかった牛の糞便からたくさんの結核菌が土に入って長年経っても病原菌が病原性を失わないことをしっていたからです。

そのため、ワクスマンは、自分のいる研究室から離れた地階の研究室でシャッツ氏が研究するように命じました。

ストレプトマイシンを発見

その後、シャッツ氏は、ストレプトマイセス・グリセウスと呼ばれる放線菌類の2菌株を分離し、それらの菌株が生産する新しい物質を「ストレプトマイシン」と呼びました。

ストレプトマイシンは、グラム陰性の細菌と結核菌の両方に対して有効でした。1943年10月19日のことでした。

結核菌に対する効果がはっきりし始めると、ワクスマンのもとに取材が入り始めました。最初こそシャッツ氏は同席を求められていたものの、すぐにワクスマンが一人で対応するようになりました。その後一人で講演するようにもなっていました。

特許取得から訴訟へ

1944年、ワクスマンは、ストレプトマイシンから多額の経済的な報酬が可能であるとみて、人を対象とした大規模な臨床試験に使うため、メルク社に大量のストレプトマイシンの生産を了解させました。特許を申請するために臨床試験が必要だったのでしょう。

1945年、ワクスマンとシャッツ氏は、特許申請書の一部である「宣言書」に署名し、特許出願のための宣誓書に署名しました。

さらに、1946年、ワクスマンはシャッツ氏にラトガース大学の研究基金財団への特許譲渡証書に署名するように頼んできました。それぞれがたった1ドルで財団に譲渡するという書類です。

しかし、ワクスマンはその直前に財団と単独ですべての特許権使用料の20%を受け取る契約をしていました。

1948年に特許は承認されました。

1949年にワクスマンはタイム誌の表紙になり、彼が新しい特効薬ストレプトマイシンの唯一人の発見者であると紹介されました。

同じ年に、二人がそれぞれ1ドルで財団に譲渡して特許使用料を受け取らないという約束が反故にされ、ワクスマンがひそかに受け取っていたことがわかり、1950年、シャッツ氏はワクスマンとラトガース大学研究基金財団に対し訴訟をおこしました。

ワクスマンは特許使用料の35万ドルをひそかに受け取っていたことが分かりました。

のちに示談で決着がつきます。

ノーベル賞

この訴訟のおかげで、シャッツ氏は訴訟好きな人物であると思われ、新しい職を見つけることがとても難しくなりました。

一方、1952年にノーベル医学・生理学賞が「ストレプトマイシンの発見」の功績に対してワクスマンに贈られることになりました。

訴訟によってシャッツ氏はストレプトマイシンの共同発見者として法的、科学的信用に対して権利があると承認されたのですが、それは残念ながら考慮されていませんでした。

その後、ワクスマンのノーベル医学・生理学賞受賞の理由が、ストレプトマイシン発見の先駆となった系統的かつ効果的な土壌微生物の研究に対してと変更されましたが、残念ながらシャッツ氏の名前が並ぶことはありませんでした。

ラトガース賞

1994年4月28日、シャッツ氏は、ラトガース大学の最も名誉であるラトガース賞を授与され、ラトガース大学との関係を修復することができました。その後、2005年に逝去されました。

まとめ

研究や発見は純粋なものであるといいなあと思います。しかし、名誉とお金がついて回るので、なかなか人間くさいもののようです。

しかし、このような本が出版され、日本でも翻訳されて読むことができるのだから、まだまだ人の気持ちは捨てたものではないなと思いました。

「Finding Dr. Schatz:The Discovery Of Streptomycin And A Life It Saved」を書かれたインゲ・アウワーバッハーさんのサイトがありました。

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