なぜ醤油の大メーカーが銚子と野田にあるのか?

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銚子にはヤマサとヒゲタ、野田にはキッコーマンがあります。なぜ都心から離れたところに醤油の大メーカーがあるのかなと思っていました。江戸時代、参勤交代が始まって江戸は100万都市になり、醤油に大きな需要がありました。最初は銚子で関西や紀州から移り住んだ人が醤油を作り始めました。その後、利根川と江戸川がつながり、銚子からの大量輸送が可能になると、江戸にもっと近い野田でも醤油が作られるようになりました。大消費地江戸で支持されたので大メーカーになったのですね。

醤油

なぜ醤油の大メーカーが都心から離れた銚子と野田にあるのか?

昔、社会科か地理で「銚子には漁港があり、醤油づくりが盛ん」と習った時に、なぜ銚子が醤油の産地として有名なのだろうと思っていました。魚が獲れるから加工や料理のための醤油の需要があるのだろうか?と子供心に考えたものです。銚子は東京から100キロ離れています。キッコーマンがある野田も、都心から結構、距離があります。

発展したのは、歴史に疎い私でも江戸時代だと分かります。しかし、なぜ、もっと東京の近くにつくらなかったんだろうと思っていました。

ものを作るには需要と製造技術と原料の調達と製品を大量輸送する手段が必要である

もちろん、銚子や野田で醤油がつくられるようになったのには理由があります。それは醤油の需要があり、つくる技術があり、原料が調達しやすく、できた醤油を早く大量に輸送することが可能だったからです。

主な理由は、次の3つです。

  • 参勤交代のため江戸の人口が100万人にふくらんだ
  • 利根川と江戸川がつながった物流の整備(利根川東遷事業)
  • 醤油をつくる技術を持った紀州人らが船に乗って移住して来た

100万都市江戸という大きな市場

醤油製造技術の系統化調査にはこのように書かれていました。100万都市江戸で醤油の需要は十二分にあります。不足しているものを作れば売れると考えるでしょう。

1635年の参勤交代の制度により全国より多くの人が集まり、1700年頃には江戸の人口は、武士約50万人、町人約50万人の世界一の100万都市として繁栄していたと云う。

醤油は関西から運ばれてきていた

しかし、当初、醤油は関西から運ばれていました。少し前に、醤油は金山寺味噌から垂れ味噌、唐味噌を経て18世紀後半に基本的製造法ができたという記事を書きました。

醤油のルーツは和歌山(紀州)の金山寺味噌にあり、もともと関西でつくられていたのです。その分、技術的にも優位に立ち、江戸では「下り醤油」として歓迎されていました。

醤油製造技術の系統化調査にはこのように書かれていました。

醤油が生業として本格的に始まったのは上方(関西)が早く、江戸の初期には上方産の醤油が菱垣廻船や樽回船で、泉州堺の商人や大阪の商人によって木綿、酒、酢等と一緒に江戸へ多く運ばれている。

江戸へ送られた関西の醤油は、下総などの関東醤油に比べて品質が優れており、上方から下ってきた所謂「下り醤油」として歓迎された。

銚子での醤油づくりは西宮や紀州の人が始めた

銚子には醤油メーカーのヒゲタしょうゆとヤマサがあります。ヒゲタが先に創業し、ヤマサ醤油が次いで創業しました。それぞれ、関西の西宮の酒造家から習ったり、醤油の発祥地紀州・湯浅の近隣から黒潮に乗って移り住んだ人が始めたのでした。

銚子での醤油業は1616年田中玄蕃(ヒゲタ印)が、摂津西宮の酒造家真宣九郎右衛門の勧めで溜醤油をつくったのが始まりである。

銚子は昔より漁業の一大産地であり、紀州(現和歌山県)とは黒潮でつながり、漁業基地として関係が深く、多くの紀州人が移り住んでいる。紀州湯浅の隣・広村から浜口家の先祖が銚子に移り住み、浜口儀兵衛(ヤマサ印)が醤油を始めたのは、多くの文献では1645年(1700年説あり)としている。

田中玄蕃は、たなかげんば、真宣九郎右衛門は、さなぎくろうえもんと読みます。

上の文章の中にある「紀州(現和歌山県)とは黒潮でつながり」について、もっと「へえーっ!」と実感できる記事を見つけました。

紀州からの漂流物が黒潮に乗って銚子に流れ着く

日本釀造協會雜誌/48巻(1953)11号にある醤油の由来とその発達(三)に書かれていました。

紀州からの漂流物が銚子に流れ着くというのです。

紀州と銚子の関係は海潮と漁業にある、御承知の通り、黒潮の暖流は紀州沖より遠州灘のはるか沖合を過ぎて銚子沖に達し、ここより北東に走つている、オホーツク海を発し千島群島の間を流るる寒潮の云派も、又此のどころに来て交錯するから、古来銚子の沖は寒暖二潮流の魚族が群集するといわれている、有名な俚謡「大漁節」は銚子が本家本元である。

明治の初年紀州に海嘯のあった時、銚子の海岸に多数の家財調度品が流れ着いたと古老から聞かされたことがある、又過日の和歌出県の水害で流出した木材が、銚子に漂流し之が処分に付て市当局をなやましている事実がある。

甚だ余談に渉つて恐縮であるが、どうして紀州に海嘯のあつた時、伊豆半島や房州の海岸を通り越して、銚子に家財調度類が流れついたか?丁度宮崎県の青島に南洋の植物が繁茂して名物となつているのは、フイリツピン方面から流れ来る暖流と、関門海峡より寄せ来る寒流の交叉点であるからといわれている、それを思い合わすれば此の問題も自から解決がつくと思う。

海嘯(かいしょう)とは、津波のことです。家財調度品や流出した木材が伊豆半島や千葉の(九十九里浜)海岸を通過して、銚子に漂着したというのですから、紀州から船を出せば労せずして行ける場所だったのでしょう。

和歌山から銚子に移住したのは、きっと銚子で魚がたくさん獲れたからなのでしょう。

さて、銚子の醤油製造が拡大するためには江戸にどのように運ぶのか?物流が整備されている必要があります。それは利根川と江戸川がつながることで可能になりました。もちろん、醤油を輸送するだけでなく、大豆や塩など原料を運んでくるのも便利になります。

利根川東遷事業によって利根川と江戸川がつながった

1641年に行われた利根川東遷事業により江戸川と利根川が結ばれ、関東の舟運は飛躍的に発展しました。

国土交通省の利根川には、江戸川と利根川がつながる前と後の地図が出ています。地図は勝手に使うことができないので、是非、リンク先に行って見てきてください。説明だけ引用します。

鉄道やトラックがない時代、大量輸送の手段は船だけでした。

天正18 年(1590)に徳川家康が江戸に幕府が開いたことにより、江戸が政治の中心となりました。そのため、年貢米の輸送や、寛永11年(1635)の参勤交代制度、江戸城普請などをきっかけとして江戸の人口が増加し大量の物資輸送が必要となりました。

東北諸藩では江戸への廻米によって換金する必要がありましたが、外海を通って江戸に向かう航路では、風待ちのために多くの日数を要し、鹿島灘や房総沖の難所を通るため、常陸の那珂湊に入り、途中陸送を伴うルートをとっていたが、輸送力が限られていました。

東遷事業により利根川水系は関東平野に巨大な水路網を形成し、関東地方だけでなく、外海ルートと結ばれた津軽や仙台など陸奥方面からも物資が盛んに行き交うようになりました。

このため利根川は、日本きっての内陸水路として栄え、本川・支川の沿岸には、荷を下ろす河岸が数多く設けられ蔵や河岸問屋が建ち並び、賑わっていました。

利根川と江戸川は、関宿水閘門(せきやどすいこうもん)の少し上でつながっています。現在の地図のリンクを貼っておきます。

関宿水閘門 · 〒306-0302 茨城県猿島郡五霞町山王
★★★★☆ · 史跡

そして、江戸川が始まるところに、野田市があります。野田市にはキッコーマンがあります。地図を見て、銚子と野田を比べれば、どちらが有利かすぐに分かります。

野田での醤油づくり

野田の醤油づくりは銚子よりも前に始まったという伝承があります。

醤油製造技術の系統化調査にはこのように書かれていました。

野田の地で醤油製造が始まったのは古く、永禄年間(1558~69)に飯田市郎兵衛が醤(ひしお)から豆油(たまり)をとり清澄させることを発見し、甲斐の武田勢に自家の醤油を納めたと云う伝承である。

ただ、飯田市郎兵衛さんの醤油が、後の野田醤油づくりの直接の技術的な基盤になったわけではないようです。

野田醤油づくりについては、コトバンクの野田醤油がわかりやすいです。

1641年に利根川と江戸川がつながりましたが、野田醤油の歴史はその後から始まります。高梨家はもともと長野の武家の氏族とのことですが、醤油醸造の技術をどのように得たのかわかりませんでした。

事実上の野田醤油の始まりは1661年(寛文1)創業の高梨兵左衛門(たかなしへいざえもん)であったといわれる。高梨は上花輪(かみはなわ)村(野田市)の名主で土地持であり、この高梨家と並んで有力な茂木七左衛門(もぎしちざえもん)は明和(めいわ)年間(1764~72)の創業であるが、すでに1662年より味噌(みそ)の醸造にあたっていた。

また1775年(安永4)創業の大塚弥五兵衛(やごへえ)も野田町の名主であった。(中略)

ここまでで、お金持ちでないと醤油醸造ができないことを説明しています。日本酒も同じでした。野田醤油の生産量は時代とともに増加していきます。

 野田醤油の飛躍的発展を推進したのは高梨・茂木一族であった。野田醤油仲間は1781年(天明1)に結成された。(中略)

キッコーマン印の茂木佐平治(さへいじ)が醸造を始めたのは1782年のことである。野田醤油の醸造家数と醸造石高(こくだか)の推移をみると、1832年(天保3)18軒、醸造石高2万3150石、53年(嘉永6)12軒、3万2200石、63年(文久3)10軒、4万4175石と、醸造家数が減少している反面、醸造高は急増している。

野田醤油の場合、原料である大豆は常州、小麦は相州産を中心とし、塩は多く関西からの下り塩を用いていた。野田は江戸に近く、江戸川の舟運を利用して、野田河岸(がし)から荷を短時間で江戸に送ることができるため、銚子(ちょうし)より有利な条件をもっていた。醸造の展開は銚子のほうが早かったが、幕末期に野田の醸造高が銚子を上回るに至ったのは、こうした江戸市場への立地とも深いかかわりがあることを見落としてはならない。

高梨・茂木一族が後のキッコーマンとなります。

実際の所は分かりませんが、銚子から江戸に醤油が運ばれるのを見ているうちに、より近い場所で商売しようと思う人が出て来ても不思議ではないですね。

濃口醤油ができたのは元禄時代

ところで、大豆だけのたまり醤油から小麦と米麹を使った濃口醤油の基礎を作ったのはヒゲタしょうゆだと書かれていました。

ヒゲタしょうゆの玄蕃蔵物語(人の部)を読むと、このように書かれています。

土地の有力者であった田中玄蕃は、西の宮の真宣九郎右衛門(さなぎくろうえもん)という人にすすめられて醤油を醸造するようになったと伝えられている。

はじめは、大豆を主原料とした、「大極上々溜醤油」と称していたが、元禄時代に、第五代田中玄蕃が江戸の食味に合うように醸造法を改良(小麦の活用、米麹の利用など)して、現在の関東濃口しょうゆの基礎が出来上り、江戸庶民の食生活にヒゲタしょうゆが愛用されるようになった。

さらに、ウイキペディアのヒゲタ醤油には年号が入っていました。

1697年(元禄10年)第五代田中玄蕃が原料に小麦を配合するなどして製法を改良し、現在の濃口醤油の醸造法を確立させた。

以前、醤油は金山寺味噌から垂れ味噌、唐味噌を経て18世紀後半に基本的製造法ができたという記事を書いた時、元禄8年(1695)に本朝食鑑が書かれていて、その中で紹介されていた醤油は、大豆の他に大麦が使われていました。

本朝食鑑以降の本では、大麦を使うと味がよくないと言われ小麦だけが使われるようになっていました。この時期に確かに小麦だけを使うようになったようです。

作っている人たちは、何としても関西から来る「下り醤油」に勝ちたいと思い、改良を重ねたでしょう。やがて成果が出るようになります。

江戸で関東の醤油が好まれるようになった

およそ100年の間に、江戸の醤油はほとんど関東の醤油に変わりした。醤油製造技術の系統化調査 にはこのように書かれています。

1726年の江戸への入荷量13万2829樽のうち、下り醤油は10万1457樽と76.4%を占め、値段も2倍近くしていたとい云う記録がある。(中略)

先の1726年から凡そ100年後の文政年間(1819~1829)になると、江戸に持ち込まれた醤油は年間約125万樽と10倍となり、その内120万樽は安房、下総、常陸、武蔵、下野、相模などの関東物、残り2万樽が上方醤油という状態になり、往年の地位は全く逆転してしまった。

江戸という大消費地で支持されれば、製造量が大きく増えます。考えてみれば当たり前のことですが、最初から江戸を相手に商売をしていたので、銚子や野田の会社は大メーカーになったのですね。

もちろん、最初はいくつも醤油蔵があったと思いますが、競争の原理で合併しながら数が減っていきます。

銚子と野田の醤油で国内シェア45%

2018年時点での国内シェアは次の通りです。合計45.4%

  • キッコーマン・・・ 28.6 %
  • ヤマサ醤油・・・11.7 %
  • ヒゲタ醤油・・・5.1 %

キッコーマンと、ヒゲタ醤油は現在グループ会社になっていました。合わせてシェア33%ですから、ダントツです。

NOTE

上で引用したヒゲタしょうゆの玄蕃蔵は、プレミアムな醤油でした。500mlで2000円と安くはないですが、一度味わってみたい魅力があります。9月に発売、予約受付中だそうです。何しろ瓶がクラシックでカッコイイです。

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