「日本発酵紀行」を読んで初めて知った2つのこと

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小倉ヒラクさんの「日本発酵紀行」を読んで、坂の街、尾道が造酢が盛んな街だったことを初めて知りました。北前船で秋田から安い原料米を買い付けて尾道で酢を造り、また同じ北前船の逆航路で売りさばいていたそうです。また、日本酒は醸造酒の中ではアルコール度数が20%くらいになり、世界でも類を見ない酒です。その仕込み方法は、何段階かに分けるのが特徴ですが、それは江戸時代に木桶が大型化されたことで工夫されてできたそうなのです。納得。

「日本発酵紀行」を久しぶりに取り出して読んだ

渋谷ヒカリエで2019年4/26〜7/22まで開催された『FERMENTATION TOURISM NIPPON〜発酵から再発見する日本の旅〜』に私も行きました。その展示に合わせて出版された本が、小倉ヒラクさんの日本発酵紀行です。47都道府県の発酵文化を訪ねた旅行記。

展示を2回見に行ってからこの本を読みました。最初に八丁味噌から始まり、次に和歌山の金山寺味噌の太田久助吟製を訪ねています。

展示を見た直後は、見た内容を消化しきれないのでこの順番を何とも思わなかったのですが、今なら、最初に一番古い味噌と、一番古い醤油を見に行ったんだなと思います。発酵食品好きな私も見学してみたい。

久しぶりに本を取り出してきて読んでみると、とても興味を持ったことを2つ思い出しました。それをメモしておきます。

尾道で造酢が盛んだったとは知らなかった

展示を見ている時、広島県尾道市が造酢の街として紹介されていました。見た瞬間「なぜ?」と思いました。

仕事の関係で尾道には何度か行ったことがあります。坂の街として有名なだけあって山が海の近くまで迫り、米が穫れる環境ではありません。平地が少ない狭い街なので、製造業に向いている土地とは思えなかったのです。

「えっ、それほんと?」

ほんとなんだよ。明治中頃まで、尾道は街をあげて酢を醸しまくっていた。大正5年の時点で、10蔵ほどのメーカーが約2万石もの酢を生産する、西の造酢大国だった(ちなみに東の超大国はミツカン擁する愛知県知多半島の半田)。その面影を残すのが、尾道名物の長いアーケード街の奥に佇む尾道造酢の蔵だ。(中略)

尾道造酢の地図があります。確かに有名な商店街のアーケード街の向こうにありました。

尾道造酢|【広島県・尾道市・お酢・そのまんま酢のもの】 · 〒722-0045 広島県尾道市久保1丁目5−2
★★★★☆ · 調味料製造業者

尾道造酢のサイトにある会社概要を読むと、創業は天正10年(1582年)だそうです。

尾道造酢株式会社
会社概要 - まろやかで風味豊かな尾道酢を使用した酢の物などの調理例も紹介している「尾道造酢株式会社」のHPです。備後の国尾道市は、酢の銘醸地として古くから有名であります。当社は創業400年以上の古い伝統を有し、当時からの優れた酢造りに対する厳しいこだわりを守り続け、まろやかで風味豊かな尾道酢を造り続けています。

2万石という単位が分かりませんが、本にはこのように書かれています。

1石=1升瓶100本。つまり1升瓶で約200万本分=360万リットル。

なかなか大した量です。しかし、原料の米をどうやって調達したんだろうと思いますね。

秋田で安い米を買って北前船で運んできて尾道で酢を造って逆向きに売っていく

北前船で米を運んできて、お酢を醸造し、また北前船に載せて売りさばいていたのです。江戸時代は海運業が大量輸送の唯一の手段でした。

海運について。この旅を通して全国各地で出会うのが北前船の文化だ。北前船は、秋田の象潟(きさかた)や山形の酒田、福井の若狭湾など北国の日本海沿岸から、山口の下関から瀬戸内海を通って大阪の堺に入る(あるいは始まる)、日本列島の西側を行き来する大航路で、モーターやエンジンがない時代に、潮の流れに乗って大量の物資を輸送するロジスティクスとして発展した。(中略)

尾道の酢の場合はどのようになるだろうか。まず原料の米は、秋田の粒の揃わない安価なものを日本海→瀬戸内海のルートで仕入れる。そして尾道で酢に加工して付加価値をつけ、逆まわりのルートで日本海沿岸に売ったのだね。

海の商人の街である尾道は、北前船の運行ルートを握っていた。その販路に自前のプロダクトである酢を載せて北前船のルートの果ての北海道、さらに樺太(サハリン)まで売りさばいていた。ちなみに現代における造酢の雄であるミツカン(中楚酒造)は、知多半島→江戸という東の廻船航路を制覇した。

尾道酢の詳しい資料は、尾道酢の経営学–老舗企業の番頭経営という論文がありました。

ところで、日本酒をさらに発酵させると酢になります。広島は酒どころとして知られています。独立行政法人 酒類総合研究所は広島市内にあります。なぜ、広島が酒づくりが盛んだったのか?知りたいなと思いました。ひょっとして尾道で酢を醸造しようとしたことと関係があるかもしれない。

次に、もう一つ日本酒と木桶の話をメモしておきます。

木桶の大型化が日本酒の醸造技術を変えた

日本酒のアルコール度数は、20%くらいになります。世界の醸造酒でこんなにアルコール度数の高い酒はないそうです。ワインは12~13%になりますが、補糖をしてアルコール度数を上げています。

その他の醸造酒は、だいたいビールと同じ程度5%程度がせいぜいです。なぜ、日本酒だけこんなにアルコール度数が高くなるのか?その理由は仕込み方法にあります。

以前「わが家でできるこだわり清酒」はドブロクと清酒造りが学べるに書きましたが、日本酒は、最初に米麹と蒸米と水を発酵させて、酒づくりに必要な酵母を増やすために(もと)をつくります。さらに酛をもとに、もっと量を増やした米麹、蒸米、水を加えて発酵させた(もろみ)をつくります。酛と醪に本質的に違いはありません。

何回かに分けて発酵させるので、アルコール度数が上がるのです。

このことを知った時は、なぜ何段階の仕込みをするのだろう?強い酒がほしかったからなのかなと思ったのですが、この本では、その理由は木桶の大型化だと書いています。

江戸時代に起きた醸造ビッグバンには意外な立役者がいる。木桶だ。老舗の醤油蔵や味噌蔵で見かける、見上げるほど大きな木桶。これは日本で特異に発達した文化だという。そういえば、ワインやウィスキーに使う木樽(Barrel)で自分の背丈を超すようなものを見たことがない。(中略)

「日本の木桶の秘密は、竹。竹のタガの技術が確立したことによって巨大化することができたんです」(中略)

まず竹を編みこんでベルトのようなものをつくる。これが外から見える竹タガなのだが、実は木を直接締めるのは、ベルトと木の表面のあいだにはさみこむ、細い棒に縄を螺旋状に巻いた芯と呼ばれるものだ。鉄タガが面全体で木を締めるのに対し、竹タガは芯の縄の摩擦力によって木を締める。

螺旋状に巻かれた縄は面全体を締めることはないので、力の逃げどころがある。そして竹を編み込んだベルトは木や縄と違って伸縮しないので、桶のカタチが崩れないための頑丈なカバーになるわけなんだね。しなやかな芯とガッチリした竹カバーの両面作戦によって、木の膨張を受け止めながら中身が漏れないように締める、というアクロバットが可能になった。

このイノベーションが江戸時代初期に起こることによって、木桶がどんどん大きくなった。容器が大きくなるということは、一度に仕込む量が大きくなるということ。

工夫して木桶を大型化させたのは、もちろん、生産量を増やすためです。日本酒にそれだけ需要があったのでしょう。ただ、素人考えでも一度に大量に仕込むのはむずかしいです。何しろかき回すだけでも大仕事です。発酵が進めば醪が溶けて水のようになっていきますが、最初はお粥のようなものです。

大型の木桶に入った大量のお粥をかき回すことを考えたらどれだけ重たくて大変な作業になるか想像がつきます。

それで、日本酒特有の仕込み方法ができました。

木桶が大型化する前は、酒はどぶろくのように一段階の仕込みでつくっていたはずだが、何トンもある大型の木桶では一度にすべての原料を入れて発酵を行うことはできない。

そこで、まず少量の酒母を仕込み、その酒母を大きな木桶のなかに移して3段階に分けて原料を足して酒を醸していく「三段仕込み」と呼ばれる方法論が生まれた。木桶が小型のままだったら、都美人がやっているような洗練された酒母づくりも、段階的な仕込み法も生まれなかっただろう。

NOTE

歴史を調べると、ものごとには必ず理由があることが分かります。尾道でなぜ酢を盛んにつくったのかこの本では理由がはっきりわからなかったですが、知りたいと思いました。尾道で酢を大量に醸造できたのは、北前船という大量輸送の手段がすでにあったからです。近隣でなく安い米を秋田から調達し、できたお酢は同じ輸送手段を使って、売りさばく。

こういう話は面白い。

日本酒の仕込みが何段階かに分けられているのは、木桶の大型化による、なんて初めて聞きましたが、すぐにそうだったんだろうなと思いました。

木桶の大型化は竹のタガで可能になり、一度に大量にできるようになりましたが、大きな木桶で仕込むと今までの方法ではうまくいかないので、工夫した結果、何段階かにわけて仕込むようになった。結果として世界一アルコール度数の高い醸造酒ができるようになったというわけです。

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