サッポロビールは開拓使麦酒醸造所から

日本のビール 面白ヒストリー:ぷはっとうまいを読みました。日本のビールの歴史が書かれています。

最初は、横浜の外人居留地で、明治2年にジャパン・ヨコハマ・ブルワリーが、明治3年にスプリング・ヴァレー・ブルワリーが醸造を始めました。スプリング・ヴァレー・ブルワリーは、のちにキリンビールになります。しかし、建物や設備が関東大震災で倒壊し、生麦にある現在の横浜工場に移転しました。

日本ビールの発祥の地ともいえるこの場所は、現在、北方小学校とキリン園公園になっています。湧き水があり、ビールを醸造するのも冷やすのもよい場所だったそうです。

さて、この本を読んでいて面白かったのは、明治時代が始まり、北海道開拓使がつくった開拓使麦酒醸造所がサッポロビールの始まりだったという話です。

この記事では、明治時代になると大急ぎで開拓が始まった北海道とサッポロビールの話を書いておきます。

明治時代の始まり

1867年、大政奉還で江戸時代が終わり、明治元年(1868年)から翌年にかけて、箱館(函館)五稜郭を中心に、榎本武揚ら旧幕臣が臨時政府をつくって官軍に抵抗した戦いがありました。しかし、この戦いは榎本らの降伏によって終結し、鳥羽伏見の戦いから続いた幕府側の抵抗はすべて終わりました。

ここから明治時代が始まります。

五稜郭の戦いで榎本武揚が率いる旧幕府軍を降伏させたのは、新政府軍を率いた陸軍参謀、黒田清隆です。

明治2年(1869年)開拓使が誕生します。開拓使(かいたくし)は、北方開拓のために置かれた日本の官庁のことです。主たる目的は対ロシア防衛のためです。

水土の礎にあった明治以前の北海道を読むと、アイヌ民族が住んでいた北海道に和人が移り住んだのは室町時代のことだったようです。

しかし、幕末になっても、東北6県と新潟県を合わせた面積に匹敵する広い北海道のうち、松前藩が支配していたのは、函館を中心とするわずかな面積でした。(出典

開拓使

明治3年(1870年)黒田清隆が開拓次官として現地を視察、開拓期間は、10年。予算は1000万両と決まりました。当時の国の歳出は2000万両ですから、相当に大きい金額です。

明治4年(1871年)、黒田清隆はアメリカに渡り、現職の農務長官だったケプロンをスカウトしてきました。

そして、北海道を明治維新後の国力増強に活用するために、札幌の開発、道路・港湾・鉄道の整備、鉱山開発、官営工場の建設、札幌農学校の設置などを進め、集団移住者と屯田兵による開拓を推進します。

明治9年(1876年)クラーク博士で有名な札幌農学校(現在の北海道大学)が開校します。水田で米を作る従来の農業ではなく、近代農業の導入のためでした。

近代産業としては、ビール、ワイン、生糸、缶詰、味噌、しょう油、紙など約30業種にわたって工場の建設を進めました。

開拓使麦酒醸造所

ビールが選ばれたのは、原料の大麦が北海道で栽培できること。もう一つの原料、ホップも野生ホップが自生しているのが発見されていました。

ビール産業を興せば、大麦とホップという二つの作物の栽培が継続でき、お金になります。ビール工場では雇用が生まれ、出来上がったビールは、函館に来る外国船に売れると考えられたのです。

当初、醸造所は東京に建てることになっていましたが、すでにドイツ流のラガービールが好まれるようになっており、下面発酵のラガービールをつくるには、低い温度で発酵させなければなりません。

ドイツで修行してきた麦酒醸造人は、暖かすぎる東京ではラガービールはつくれないと主張し、それが聞き入れられて札幌で醸造することになりました。札幌なら気温も低く、冷やすための氷室をつくることもできます。

明治9年、たった数ヶ月の工期で開拓使麦酒醸造所が開業しました。

そして、明治10年(1877年)には、東京でもそのビールが販売されました。当時のラベルにはすでに「SAPPRO LAGER BEER」と赤星が入っていました。ファンとしては嬉しいです。

当初さまざまな問題が起きましたが、品質はよく高評価を受けていたそうです。

開拓使払い下げ

期間10年、予算は1000万両で始まった開拓使でしたが、8年を経過したところで、支出が1400万両となり、開拓長官だった黒田清隆の責任が問われるようになりました。また、明治政府が財政不安を抱えていたこともありました。

政府が手を引いて民間に払い下げる算段がとられましたが、スムーズにことは運びませんでした。

明治14年(1881年)、黒田は開拓長官を辞任し、翌15年には開拓使も廃止されました。

北海道は、函館、札幌、根室の三県に分割され、開拓使直営事業は、農商務省に新設された、北海道事業管理局の所管となりました。

開拓使麦酒醸造所は札幌麦酒醸造所と名前が変わり、明治17年(1884年)には、札幌麦酒醸造場と改称されました。

明治19年(1886年)、北海道庁が設立され、北海道事業管理局が所管する事業所は、札幌麦酒醸造場も含めて道庁管轄となりました。

同年、札幌麦酒醸造場は大蔵喜八郎に払い下げられ、大蔵組札幌麦酒醸造場と名前が変わりました。

サッポロビールになるまで

しかし、赤字が続き、ジャパン・ヨコハマ・ブルワリーから経営者と名称が変わったジャパン・ブルワリーの株主でもあった渋沢栄一と浅野総一郎と共同経営をすることになりました。

改めて、札幌麦酒会社を設立して事業を継承します。

明治39年(1906年)には、日本麦酒醸造と大阪麦酒と合併し、大日本麦酒株式会社となりました。

昭和8年(1933年)には、日本麦酒鑛泉を、昭和18年(1943年)には、櫻麦酒を合併し、大日本麦酒のシェアは全体の7割以上を占める事になりました。

しかし、昭和18年(1943年)にビールの商標が禁止されサッポロビールのブランドは消滅しました。これは、昭和15年(1943年)からビールの配給が始まり、昭和18年(1943年)からラベルには、ただ「麦酒」としか書けなくなったからです。

昭和24年(1949年)に、過度経済力集中排除法に基づき、朝日麦酒(現・アサヒビール)と、後にサッポロビールとなる日本麦酒に分割された際も、日本麦酒はニッポンビールのブランドを採用していました。

やがて、ニッポンビールの苦戦と共に愛飲家の中からサッポロビール商標復活の声が起こるようになり、昭和31年(1956年)にまず北海道で復活。1957年(昭和32年)より日本全国でサッポロビールが発売されるようになり、1964年(昭和39年)に会社の商号も「サッポロビール株式会社」となったそうです。

いつも飲んでいる「SAPPRO LAGER BEER」は、北海道開拓の歴史に重なるとはまったく知りませんでした。

サッポロビールがますます好きになりそうです。

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